目の作家、耳の作家。

山村暮鳥という詩人の詩に、いちめんのなのはな、という詩があり、その詩は、「いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな 〜」と、ひらかなばかりで詠われている。これは、いかにも菜の花畑に菜の花がいっぱい黄色く咲いている景色が、見えるように眼に浮かんできます。まさに目の作詞家だなあと感じます。また谷崎潤一郎さんの小説の中には、印刷面の感じを考えてかどうか解りませんが、割合にひらかながたくさん使用してあり、関西方面の言葉も多くて、目で黙って読んでも、音読しても、それなりによい小説があります。わたしはそういうふうに感じます。   さて、4日前の土曜日の朝日新聞付録Beにことばの食感、「目の作家、耳の作家」という題で、早稲田大学名誉教授の中村 明という先生が面白いことをお書きになったのが載っています。(以下私流に理解したことをかいつまんで申します、誤解があれば先生や読んで頂く方々にはすみませんが)。*吉行淳之介さんを訪ねた折、「原色の街」に登場する「魚谷」なる人物を話題しようとしたが、読みがわからぬ。「ウオタニと言うのか、ウオヤと読むのか」と問うと、「僕は目に頼る人間で、どっちのつもりで書いたのかわかんないんだ」と意外な答え。川端康成「雪国」のはじめの「国境の長いトンネル」の「国境」をどう読むのかに話が移り、「あれはどっち読んでるんか」と水を向けられた。意味からいえば「くにざかい」だが一般に「こっきょう」と読み慣わしてるようだと答えると、「あれなんかも、川端さん意識して書いたかどうか」と応じ、「耳のいい人と目に頼る人があって」と、目の作家と耳の作家という持論を展開。目に頼る川端はどう読むか考えずに「国境」と書いたという仮説を述べた。*そういえば、森 鴎外が一つの漢字も妥協しなかったのに対し、夏目漱石は宛字の多いことで有名だが、意図しない読み方をされることは我慢がならなかったらしい。これなど典型的な目の作家、耳の作家という例になるのだろう。(以上) ‖いかがですかとても面白いですね。